夕暮れ時のそらYOGAも格別です
秋は空が高く、雲が何層にも広がって
いろんな雲が流れては消え
オレンジから水色、紫色に暮れなずむ変化が
神秘的ですね
1000年以上まえの平安時代
清少納言がながめた空も
こんな風だったでしょうか
人間って不思議です
どんなに心が荒れても
意識の向け方ひとつで
自然界にどっぷりつかって
ひとつにとけあってゆけるのですから…
ほんの一瞬
仕事や家事の手をゆるめて
スマホからはなれて
空を見上げる
それだけで
地球、太陽、宇宙の荘厳なランデブーに
立ち合えます
生きている限り
さまざまな出来事や想念に
心乱されますが
せめて1日1回くらいは
<今、この瞬間>に意識を向けて
春はあけぼの
夏は夜
秋は夕暮れ
冬はつとめて(早朝)
と詠んだ清少納言のように
マインドフルネスなひとときを大切に
過ごしたいですね
そらYOGAのために
屋上の太陽光パネルをすべて撤去しました
設置して8年で外すのは例がないそうです
太陽光を電気に変えるより
天体のリズムを感じながら
生命エネルギーとつながる場にしたい
直観で決めました
広々としたスペースは
まさに<太陽と月の広場>
みなさん、あそびに来てくださいね
…………………………
興味のある方は読み進んでみてください
心という魔物がつくりだした幻想(イリュージョン)から
意識的にはなれて
今をあるがままに味わう
それが脳、心、からだを休めて
明日へと進む
かけがえのないエネルギーチャージになります
枕草子を著した清少納言は平安時代中期の女性ですが
いまから千年以上前に
この随筆が人気を博したのは
すでにその時代
ひとの心が<いま、この瞬間>から離れて
自然と分離して
過去や未来、他者の心の内などをさまよって
不安、妄想にのみこまれる状態になっていたからでしょう
文明の発展と富の蓄積にともなって
人類は物質的幸福とひきかえに
不安と恐怖を増大させてきました
ヨガが生まれた背景も
文明の発展によるストレス(心の妄想)からの解放
という
時代のニーズがあったと言われます
太古のはじめ
ひとが自然とともに生き
地球の生態系や宇宙と調和しながら
自分自身の内に至福や歓びを見出していたころ
ひとは心を必要な時のみ動かし
必要のない時は心のはたらきを止めていました
これが<止滅の心(ニローダ)>
この自然主義の時代、少なくとも3000年以上前の
古代インドで編纂されたリグ・ヴェーダは
生命や身体、自然への讃歌から成り立っています
ときを経て
ひとの心が暴走をはじめ
つねに何かを考えている
という状態に
悩まされるようになりました
止滅の心(ニローダ)から、一点集中の心(エーカーグラ・チッタ)へ
一点集中から散漫な心(ヴィクシプタ・チッタ)へ
散漫な心から、惑わされた心(ムーダ・チッタ)へ
惑わされた心とは
肉眼で見える物質や現象だけがすべて
とかたくなにとらえる心のこと
ひとが自然から離れ
<いま、この瞬間>から離れるとともに
気づきの退化がすすみ
ひとは暴走する心に支配されるようになりました
ヨガはそんな心の過剰なはたらき、暴走に気づき
コントロールして
本来の自然な状態、本来の姿に還ろうとする試みです
ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである
ヨーガ・スートラ 1章2節
その時、みる者は本来の姿にとどまる
ヨーガ・スートラ 1章3節
ただ忘れてはならないのは
ゴールは<心のはたらきの止滅>ではなく
止滅の先に
自然界との調和や生命のつながり、歓び、幸せを
あるがままに感じること
太陽や空、海、森などの自然のなかでのヨガが望ましいのは
自然界に身をひたすことで
自我(エゴ)が弱まり
自然との一体感という至福へ没入しやすいからです
この至福を抜いてしまって
ただのテクニックや努力におちいった修行は
自我(エゴ)を増大させ
無感覚、無感動な状態へとおちいっていきます
自然界でのヨガの心地よさをゆったりと楽しむ
そんな初心に
いつも立ち還っていたいですね
最後まで読んでくださり
ありがとうございました
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